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8月9日 長崎原爆の日に伝えたい永井隆博士の素顔~筒井茅乃さんに捧げるオカリナ演奏「長崎の鐘」とともに
73年前の8月9日は、長崎に原子爆弾が投下された日です。私たちはそのことを忘れてはなりません。そして平和を守り抜く日本国としての決意も忘れてはなりません。この原爆投下の日、奥様を失い、ご自身も負傷しながら病床のなか、平和への随筆や著書を残された永井隆博士。この永井博士の娘さん 茅野さんのお話を私は以前直接お聞きしました。このお話をどうしてもお伝えしたくて、この記事を書きました。

 

この記事と一緒に、今はすでに天国に旅立たれた茅乃さんに捧げる気持ちで、歌をオカリナ演奏しました。永井隆博士の気持ちを詠んだ流行歌「長崎の鐘」です。

永井隆博士のご息女 筒井茅乃さんとの出会い

暑い日が続きますね。
8月9日の長崎原爆の日に、ぜひ伝えたい記事を書きたかったのですが、
私こと、熱中症と脱水症で倒れ、点滴を受ける状態になってしまい、
この記事を書くのが今日になってしまったこと、お詫びいたします。

私がお伝えしたいのは、原爆投下後の長崎で、社会活動、文筆活動を続けられ
自らも白血病と戦いながら亡くなっていかれた永井隆博士のご遺児
永井茅乃さん(結婚されて筒井茅乃さん)からお話しいただいたメッセージを
読者のあなたにぜひお伝えしたいんです。

私が筒井茅乃さんに出会ったのは
もう25年以上前になります。

広島県の呉にいた私は、
カトリック教会であの頃も変わらずオカリナを吹いていたのですが、

当時の主任司祭であった大倉神父様のご紹介で
呉のカトリック教会まで筒井茅乃さんが「平和と父の思い出」というテーマで
お話しに来てくださったのです。

永井隆博士の「この子を残して」の「この子」が筒井茅乃さん

筒井茅乃さんは、私が尊敬してやまない永井隆博士の娘さんです。
永井隆博士は、著名な原子物理学者で、当時のレントゲン技術の先駆者でしたが、
研究の中で自らエックス線を浴び続けたことで白血病にかかり、
余命3年と言われていました。
その折に長崎に投下された原子爆弾。
奥様を瞬時に失われ、自らも負傷される中、救護活動をされました。
幸いながら、ご子息たちは疎開されていたので救われましたが、
その後、残されたご子息たちと一緒に長崎の復興に努めながら
平和を願う著作物をいのち尽きるまで書き続けました。

 

永井隆博士は多くの随筆やエッセイを書き残され

昭和21年に病床に付してから、
闘病生活の中でものすごい勢いで文筆活動をされ、
昭和21年8月に『長崎の鐘』、
昭和23年1月に『亡びぬものを』、3月に『ロザリオの鎖』、
4月に『この子を残して』、8月に『生命の河』、
昭和24年3月に『花咲く丘』、10月に『いとし子よ』などを発表し、
その多くがベストセラーとなりました。

著作の中では、闘病中に思考されたこと、気づかれたこと、そして
原爆投下後の長崎で平和を熱望する思いを書き残しておられます。
また、
「この子を残して」は映画にもなりました。

これらの一連の著作の中で登場する、
体が弱くて、あどけない娘。
それが「カヤノ」です。
映画でも、小さい少女として登場します。

だから「カヤノ」は永井隆博士の小さな娘さんで
博士が愛して、自分の死後の先行きを心配してやまなかった
いたいけな娘さんとして、私の頭の中にありました。

 

(写真引用:永井隆記念館 二人のお子さんと永井隆博士。ベッドの左側が茅乃さん)

 

カヤノに会えるうれしさのあまり

その「カヤノ」が呉にやってくる!
しかも、教会の姉妹として、親しくお話に来てくださる!
私は、何が何でもカヤノさんにお会いしたく、
カトリック教会に行きました。

「カヤノ」さんは当然、もう少女ではなく
ご結婚後、姓が変わり、筒井茅乃さんとして、
当時は、大阪府の枚方カトリック教会で
婦人会や売店の受付など、信徒活動をなさっておられました。
教会でよく見かける活発で優しいご婦人たちと変わらない雰囲気の
親しみやすい方でした。

講演会(と言っても、狭い部屋で茅乃さんを囲んでのお話会)が終わった後、
テーブルを囲んでみんなでお茶を飲みました。
私はうれしさのあまり、茅乃さんにこう言いました。
「枚方教会ですか! 私の生まれ故郷は高槻なので
淀川を挟んで向かい側ですね!
小さいころ、ひらかたパークの菊人形に連れて行ってもらいましたよ!」

茅乃さんは、目を輝かせて言われました。
「まあ! ひらかたパークの菊人形展は素晴らしいわね!」

私も目を輝かせて茅乃さんに言いました。
「いつか枚方教会に遊びに行きますから、その時はよろしくお願いします」
たしか、あのとき、
ポケットに持っていたオカリナで聖歌「ごらんよそらの鳥」を
茅乃さんに吹いたと思います。


(「ごらんよそらの鳥」の演奏動画)

いつか枚方教会に会いに行く、こう約束していたのに、
その後、呉の地を離れた私の上には、いろいろなことがあり、
とうとう、茅乃さんがご存命中に再会に行けませんでした。

2008年に66歳の若さでお亡くなりになっていたことを聞いた時は
涙が流れ、
ご存命中に再会に行かなかった自分のふがいなさを
自分で責め続けていました。
でも、茅乃さん、
天国で、私のオカリナ「ごらんよそらの鳥」思い出してくださっているでしょうか?

たった一度の茅乃さんとの出会い。
紙コップでジュースを飲みながらの、つつましい談話会。
でもあの時のお話を忘れられないから、そして、伝えたいから、
こうして記事を書きました。

筒井茅乃さんの平和記念講話を聴いて

その時のお話ですが
当時とっていたノートのすべてを私は失ってしまったため、
強く印象に残っている内容を記憶をたどりながら書きます。
講話の中で
筒井茅乃さんは本では語られなかったお父様のお話など
いろいろなエピソードを語られました。

ぬくもりとユーモアあふれるお父さんの素顔

「永井隆博士」というと、厳格な原子物理学者と思ってしまいがちですが、
素顔の博士は
けっこうユーモアのあるお父さんで
いろいろ辛くて落ち込みそうになった時や、
お父さんの病気が苦しそうで心配でならなくなった時なんかは
お父さん自らが、ジョークを飛ばして
打ち沈んだ空気をパアッと明るくしてくださったそうです。

茅乃さんは、幼かったあの当時、体が弱く、
いろいろな病気をされたそうです。
永井隆博士は、原爆投下後、6畳一間の住まいの中で
ご自身、病気と向き合いながら、
男手一つで残された幼い子供たちを育てます。
(茅乃さんのお母さんは、原爆投下当時、爆心地の浦上天主堂におられ
即死され、骨盤と背骨とロザリオだけが焼け残っておられたそうです。)

如己堂(永井隆記念館) (トリップアドバイザー提供)

ある日、茅乃さんは「はやり目」をこじらせて失明の状態になり
何をするにも目が見えなかったそうですが、
あの時に手を添えてくれたお父さんの
温かい手のぬくもりが忘れられなかったそうです。

茅乃さんご自身、当時はまだ幼かったこともあり、
永井隆博士の理論や随想の内容は、後から読んだものの、
当時はわからなかったといわれます。

ただ
確かにわかったこと、
そしてずっと忘れないことは、
お父さんの温かい雰囲気
手のぬくもり、
優しい言葉
いたわりがあって、もの柔らかな声のトーン、
どんな時もユーモアとジョークを忘れない、
明るい雰囲気だったと話されます。

「これは、
言葉がわからなくても、
歴史を学ばなくても、
忘れることはない。

だから皆さんも
ご家族、友達、周りの人に
優しい雰囲気で
温かく接してくださいね。

この暖かさは
言葉では伝えられるものではないけれど、
確かに残る、絶対に残るものですから。」

こう、笑顔で涙ぐみながら話される茅乃さんの表情は
きっと、お父さんを目の前に思い出しておられたのでしょう。

如己堂

如己堂(永井隆記念館) (トリップアドバイザー提供)

(幼い茅乃さんがお父様である永井隆博士と暮らした貧しい庵は、如己堂と博士によって名付けられた。己のごとく隣人を愛したいという思いが込められていたのだと思います。)

 

原子爆弾でも焼き尽くすことができないもの

茅乃さんは、お話の最後にこう伝えられました。

「原子爆弾の荒れ野原の中で
六畳一間の部屋に暮らしながら

優しく暖かい父がいたこと
そして優しく暖かい心があったことを
私は決して忘れません。

原子爆弾が投下されたことは
決して忘れてはならないことです。

それと同時に、
人の心の温かさ、
人の心の優しさは、

原子爆弾でも焼きつくすことは決してできないんだということを、

どうかここにきているみなさん、忘れないでほしい。
そう思うんです。」
とお伝えくださいました。

(今日では、見事に復旧した、浦上天主堂は、現在、カトリック長崎司教区の司教座になっている)

 

誰にでもできる、「日常生活での平和」

こんな素晴らしいお話をしていただいた後で
私は、今考えれば本当に恥ずかしい質問をしたと記憶しています。

私は当時、国際政治学を学んでおり、
核軍備管理(アームズコントロール)などの海外の学位論文を多く読んでいたので、
頭でっかちな顔をして茅乃さんに質問しました。
「核による抑止力が平和のバランスを保っている現在の国際政治では、
平和の達成はむしろ難しくなっているのではないでしょうか」

この私の質問に、茅乃さんは、
優しくさわやかな笑顔でこう答えてくださりました。
「父もよく言っていましたが、
私たち、だれもができることを
日常からしていくのは、どうかしら?

日常生活の中での平和ですよ。
ケンカをしても仲直りできたり、
相手のことを思いやったり、
理解してほしいと思う前に、相手の方を理解しようと思ってみたり、

こうした日常生活の中での、
心の小さな積み重ねが
平和につながっていくことを
信じたいですね。

私たちのできること、
こうした日常生活での小さなことを
していきたいですね。」

茅野さんのこのお答え
今日の私の上にも、非常に深いお言葉として
心にいただいています。


如己堂(永井隆記念館) (トリップアドバイザー提供)

(永井隆博士が、お子さんたちを育てながら、六畳一間で執筆活動をされた如己堂)

オカリナ演奏「長崎の鐘」を筒井茅乃さんに捧げたい

「枚方教会にオカリナを吹きに行きますから」
この約束を、ご存命中に守れなかった私は、
どうしようもないとしか言いようがありません。

茅乃さんご存命中には、もう一度オカリナを吹きに行けなかった・・・・
でも私は、魂の不滅を信じていますから、
この演奏をきっと茅乃さんは聞いてくださると思い、
永井隆博士の心情を歌った流行歌
「長崎の鐘」をオカリナでカバー演奏しました。

「長崎の鐘」誕生のエピソード

この歌は、永井隆博士の思いを、短い4番の曲で歌ったもので、
昭和24年にコロムビアレコードから発表されています。
永井隆博士の著書を読んで心を打たれた
サトウハチロー氏が心を込めて作詞し、
また同じく心を打たれた古関裕而氏が作曲しています。
そして、歌手は、「丘をこえて」や「青い山脈」などの
今も歌い継がれる流行歌を歌った藤山一郎さんでした。
藤山一郎さんは、40度の高熱の中、レコーディングをされ、
体調が悪くて調子が出なかったら、後日録音しなおすよ
と言われながらも熱唱し、
その熱唱がかえって心に響いたので
そのままレコードになったというエピソードがあります。
曲が発表されてから、藤山一郎さんは、
アコーディオン片手に、ご存命中の永井隆博士を見舞われ、
永井隆博士から短歌をいただきました。
「新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘」
つまり、
永井隆博士本人も、この「長崎の鐘」を聴かれたということです。

オカリナで「長崎の鐘」を吹いて

この曲を、オカリナでカバー演奏するにあたり、
千葉のオカリナ作家 鈴木のぼるさんの作品
「蜩オカリナ 松虫モデル アルトC」で吹かせていただきました。
強い息でしっかり鳴るオカリナなのですが、
その強さは、とても優しい響きがあると私は感じています。
制作者の鈴木のぼるさんの気持ちが音色に現れているようです。

この「長崎の鐘」のメロディーを吹いて感じたのですが
最初は短調で始まる曲調が、
後半のさび「慰め 励まし 長崎の」から、
長調に転調されるところで、
どんなに苦しい状況にあっても、希望の光が必ずあるということを
メロディーから伝えられたらと思いました。

ただ、
恥ずかしいことに、吹きながらついつい泣いてしまいまして、
演奏中ところどころ、
調子がひょろひょろしている部分があります。
恥ずかしいので録音しなおそうかと思いましたが、
藤山一郎さんが高熱を出しながら熱唱されたことを思えば、
泣きながらひょろひょろしたままでもいいじゃないかと思いなおし
そのまま動画にしました。

私は、この歌を後世まで伝えたいと強く思います。
そして、筒井茅乃さんのことば
「優しい雰囲気、ユーモア、ぬくもりは
忘れられることはなく、
原子爆弾も焼き尽くすことはできない。
だから、接する人にやさしくしていきたい」

この言葉を今まで私は、実行できていたとは自信を持って言えません。
しかし、これからの自分の日常の中で、茅乃さんの言葉を実行しながら、
後世に伝え残していきたいと思います。

そして、このカバー演奏を天国におられる筒井茅乃さんのご霊前に捧げたいと思います。