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前回の記事では、京都北部日本海岸の舞鶴に湧く「真名井の名水」を紹介し、その真名井の名水を愛した殿様、細川幽斎について少しふれました。「ゆうさいくん」というゆるキャラにもなっている、とても親しみやすいお殿さまですが、この細川幽斎公、文化と平和の名君として今もみんなから尊敬されています。それではどんなお話なんでしょうか?本日の記事ではそのことについてわかりやすく解説します。

オカリナ演奏動画で、細川幽斎の愛した真名井の水を紹介しています。

細川ガラシャのお父さん

ところで、「ゆうさいくん」こと細川幽斎とは、
どんな人だったのでしょう?


(ゆるキャラ ゆうさいくん)

このお殿様、
細川藤孝という名の戦国武将で、
足利将軍や織田信長の名参謀として活躍した智将です。
出家してお坊さんになって「細川幽斎」と名乗ったそうです。


(細川幽斎の肖像)

名門細川家の先祖である細川忠興公のお父さんで、
忠興公の妻は細川ガラシャなので、
切支丹として有名な細川ガラシャの姑にあたります。


(大阪玉造天主堂にある、堂本印象画伯の日本画に細川ガラシャが描かれている)

細川ガラシャの旧姓は 明智たま です。
本能寺の変で織田信長を打倒した明智光秀の娘さんなんです。

細川藤孝(のちの幽斎)は明智光秀と親友でもあり、
嫡男の忠興の正室に、光秀の娘 たま を迎えたのです。

たまは、明智光秀が豊臣秀吉に敗れたのち、
逆賊の娘として命を脅かされる立場になりますが、

夫である忠興と 姑である幽斎の計らいで
丹後半島の山奥の「味土野」という地に「幽閉」の形で守られます。

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(カトリック宮津教会の近くに建つ細川ガラシャ像)

その後、ほとぼりが冷めて大阪の細川屋敷に移った たま は
数奇な縁でキリスト教の洗礼を受け
「ガラシャ」という洗礼名をいただきました。

あの有名な「細川ガラシャ」です

石田三成と徳川家康の緊張の下で

では、細川幽斎がなぜ有名かというと、
関ヶ原の戦いの少し前、
この田辺城にたてこもって戦った籠城戦で
刀や暴力を使うことなく、文化人としての才覚で
戦いを終わらせ、民を守りきったという、
「文化と平和のお殿様」としての伝承が、今に伝えられているからなのです。

いきさつはこういうことです。

豊臣秀吉が亡くなってから、
秀吉の近臣であった石田三成と
大老の中でも最も有力であった徳川家康の間で緊張が高まり
やがて、西軍の石田三成派と
東軍の徳川家康派で関ヶ原の戦いが始まります。

話は、この関ヶ原の戦いの少し前にさかのぼります。

徳川家康との緊張が高まっていたころ、
石田三成は、諸国の大名に命じて、
妻子を大阪城に人質として差し出すよう命令します。

このころ、細川幽斎の息子 細川忠興は、徳川家康側にすでについており、
関ヶ原の戦いの直前の戦である上杉討伐に、徳川軍の武将として参戦していました。

細川ガラシャ夫人の悲劇

そのおり、石田三成は
大阪の細川屋敷に残された忠興の妻 ガラシャ夫人にも、
人質として大阪城に移るように命じます。
しかし、ガラシャ夫人はそれを断り、
火がつけられた屋敷の中で、死を遂げました。

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丹後にいる細川幽斎のもとに
このガラシャ夫人の死の知らせが届けられますが、
このことで悲しんでいる間もなく、
石田三成派の西軍の大軍が、丹後の細川幽斎を攻撃する動きが始まります。

このころ、
西軍の勢いは圧倒的で、丹後に残された細川勢はわずかでした。
このとき、幽斎は死を覚悟して田辺城に籠城する決心をします。

決死の田辺城籠城戦

そしていよいよ、
西軍の将 福知山城主の小野木重勝をはじめとする
1万5千の大軍が田辺城を包囲し、籠城戦が始まりました。
田辺城には、武士だけでなく、農民や僧侶もたてこもって、
幽斎を支えたと伝えられています。

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(幽斎が籠城したと伝えられる、舞鶴市の田辺城跡)

激しい籠城戦の中で、幽斎は決死の覚悟で臨み、籠城戦は2か月以上に及びました。
そんなおり、
朝廷が、何としても幽斎の命を救おうと、停戦を勧める勅使を派遣しました。

「古今伝授」を守れ

なぜ朝廷が動き始めたかというと、
細川幽斎が、朝廷に対する「古今伝授」の先生であり、
その「古今伝授」の講義もまだ終了していなかったため、
もし幽斎が命を落とせば、
古来から受け継がれてきた「古今伝授」が絶えてしまうからでした。

ところで「古今伝授」とは
平安時代にまとめられた古今和歌集の解釈の秘密の教えを伝え受けることで、
一流の和歌の達人にのみ許されることでした。
その相承には厳しい戒律と条件があります。
細川幽斎は、この「古今伝授」を相承し、
それを、後陽成天皇の弟である八条宮智仁親王に伝授の講義をしていたところでした。

籠城戦の中で死を覚悟した幽斎は、
親王の使者の降伏の勧めを断り、
その代わりに、古今伝授の内容を書いた書物を入れた箱と
伝授の証明書を勅使に託し、智仁親王に送りました。
自分のいのちがこの籠城戦で尽きようとも、
何とか古今伝授が絶えることを防ぎたかったのです。

「心の種」の有名な歌

このとき幽斎は、
「いにしへも いまもかはらぬ 世の中に
心の種を 残す言の葉」
という有名な一首を添えて贈っています。

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(田辺城公園に建つ 幽斎の歌碑)

自らのいのちがこの戦いで尽きようとも、
昔から今に伝わる
素晴らしい伝承と文化は、
心の種となって
これからの時代を豊かなものにしていくだろう
そんな思いを込めたのでしょう。

この幽斎の歌は
田辺城に歌碑となって今も残っており
「心種園」という庭園にもなっています。

天皇の御心も動かす文化人

こうして、
いのちを捨てても「古今伝授」を守ろうとした幽斎に心打たれた天皇は
勅使を送り、
停戦の仲介をします。


(後陽成天皇)

この仲介が功を奏し、
西軍は包囲を解き、幽斎も停戦を受け入れました。
こうして
2か月にわたる籠城戦は
刀や武器の力ではなく、
文化の力で、平和のうちに幕を閉じました。

こうして
細川幽斎は、文化と平和のお殿様として
今も尊敬を集めており、

幽斎公ゆかりの名水である真名井の湧水も
今も私たちの喉を潤している次第です。

参考文献:舞鶴市編『細川幽斎と舞鶴』2013年。

真名井の名水をテーマにオカリナ演奏動画を作りました

このような歴史を持つ名水を飲めることに
感謝の心を込めて、オカリナ演奏動画を作りました。

演奏したオカリナは
アケタオカリナのソプラノGで、
曲は、子どものための聖歌「主は水辺に立った」を選びました。

復活したイエスが、ガリラヤ湖のほとりに立って
弟子たちの前に現れたという福音の一場面を歌にしたものです。

この聖歌が
真名井の水にぴったりだと感じました。

なぜなら、この純粋な水は
体を癒すだけではなく、心も新しくし、癒してくれるので
復活のイエス様のイメージに近いと感じたからです。

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地中深い所から湧き出るこの湧水は
地上の気温に左右されません。

それと同じく、私たちの心の深い所から湧き出る希望は
運命の幸運や不運に左右されないと思うんです。

それは、どんな状況にあっても、
自分が、自分のいのちを、自分らしく生きるという希望ではないでしょうか。
そんな思いを込めてこの動画を作りました。

細川幽斎ゆかりの京の湧水に思う~夢と希望のバリアフリーロード