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私はよく老人ホームでオカリナ演奏をしますが、ある日、特別養護老人ホームでみんなでオカリナを吹いてうたをうたった後のこと、一人のご利用者が涙を流して「わたしは、ここにいても、いるんやな。」と言われました。この言葉の中に私は大きな気づきをいただきました。今回の記事ではその出来事についてお話します。

「古城」もオカリナで吹いて懐かしがる方がたくさんおられました。

(この、三橋美智也さんの「古城」は、大正世代の方にはとても人気があります。しかし私の母のように昭和世代は、やはり、杉良太郎さんとか、小柳ルミ子さん、西城秀樹さんと言った、歌謡ベストテンお茶の間ヒットソングですね。)

お茶を飲みながらのオカリナ会

私はよく「特別養護老人ホーム」にオカリナを吹きに行きます。

母が重度の認知症で入所しているから、母に面会に行って、
母のそばでも、そして入所している皆さんのところでも吹くのですが、

母のところ以外でもボランティアで招かれて吹きに行くこともあります

コンサートという形式ばった形のものではなくって

リビングルームでみんなでお茶を飲んだり

世間話しながら

オカリナを吹く・・・・

こんなラフな形のオカリナ会です。

世話を受け、叱られるばかりの毎日の中で

そこである日
オカリナを吹いた時の話です。

みんなが楽しく手拍子をしてくれる中で、
一人のご婦人は
下を向いてさみしそうにされていました。

「どうされましたか」と聞くと

「どうせ
こんなとこに入ったから

うちなんか
世間の何の役にも立たないから・・・

迷惑かけるばっかりだから・・・」

こう言って涙を流されました。

「どうしてそう思われるのですか」

さらにこう聞くと、

「怒られるばっかり。

侮られるばっかり」

と。

一緒に歌を歌いながら

この施設に入って、

このご婦人はどれだけつらい気持ちでいたんでしょうか。

ごはんも自分で食べられないから、介護を受ける。

おトイレも自分でできないから、介護を受ける。

今までできていたことが

何もかもできなくなって・・・

私も涙が流れました。

「でもね、

一緒にオカリナ聴いてくれたら

私もうれしいですよ。」

この一言に
ご婦人は

オカリナの音に手拍子を下さり、

歌詞カードもないのにみごとに唱歌を歌ってくださりました。

魔法の言葉

リビングルームは
このご婦人の歌に先導されて
大合唱です。

オカリナ会が終わってご婦人に
「良かったですね」

というと、

ご婦人は
笑顔で
「よかった。

わたしは

ここにいても、

こうして

いるんやな。

いるんやな。」

とおっしゃってました。

何となく
ニュアンスが伝わってくる言葉でした。

まさにこの言葉の中には、
不思議な力が宿っている
魔法の言葉じゃないかと思いました。

この言葉の意味について、

帰ってからじっくり考えてみました。

「ここにいても、いるんやな。」

「ここにいても、

いるんやな。

いるんやな。」

何気なく言われた、老人ホームのご利用者の言葉でしたが、
帰ってからこの言葉をかみしめて、
そこに込められた思いを深く考えました。

そして、この言葉の中に
「いる」ことの意味が深く含まれていると
あらためて気づき、ハッとしました。

私のこれまでの人生観、
考え方をまっさかさまにひっくり返すくらいの
大事件と言っても過言ではありません。

私は
いろんな場の中で
「いる」ことの意味を

「誰かに必要とされること」
と思っていなかったか?

学生のころは
勉強する理由は、
役に立つ大人になりたいからと思っていなかったか?

社会に出たら
会社などで働いて行く理由に
家庭にいたら
家族を支えたり世話をする理由に
「必要とされている」ことと思っていなかったか?

これまで
そう思い込んできたのではなかったか?

こう自分で自問してみました。

それで
もういちど
自分に問いかけてみました。

「なぜ生きる?」
私をだれかが必要としているから?

「なぜ仕事をする?」
私の働きが必要とされているから?

でも
それが本当でしょうか?

これまで何もわかっていなかった自分が恥ずかしくなる

「なぜ生きる?」
「なぜ仕事をする?」
「なぜ家族と過ごす?」

もう一度考えてみました。

そうしたら
わたしは

何にもわかっていなかったことに気づかされたのです。

もし

「あなたはどうしてここにいますか?」
「あなたは何を目標に生きていますか?」
「あなたは何のために毎日働いて生きているんですか?」

こう突然聞かれると
どう言う答えを、とっさに言えるでしょうか?

「家族を守るため」
「人の役に立つため」
「社会に、価値を届けるため」

私ならこう言ってしまうかもしれません。

「他にありませんか?」

こう聴かれても
「うーん・・・・」
と考えて、答えが出てこない自分に気づきました。

そんな自分が恥ずかしいと
初めて感じました。

競争に勝つことばかりを考えていた人生

なぜこんなことになるのでしょうか?

私が生まれたころは、ベビーブームでした。
そのころは、経済は成長して
外国に追いつけ追い越せの勢いでした。

そのころ
私を囲む大人の多くは
競争に勝つことばかりを考えている人が多かったような気がします。

学校でも家庭でも
「人よりも優れていること」が求められていて
優れていたら
「よかったね」とほめられて
優れていなかったら
「がんばれ」と励まされる日々だったと思います。

もちろん
学校でも点数順位を発表されて、比べられていたし、
模擬テストを受けるたびに
「偏差値」という数字を見せられて
「頑張れ、頑張れ」と言われていたんですが

困ったことに

まわりの大人に比べられるだけではなくて
自分自身が
自分を比べたり品定めしていたことに気づかされます。

私自身が、自分を誰かと比べ、
誰かより勝っていたら自分が必要とされていると喜び、

誰かより劣っていたら、
自分は必要とされていないと落ち込むか、
必要とされる自分になるように頑張るか、

そう言う思考パターンになっていたんですよ。

そしてそのパターンで
「誰かに負けない」という行動を
無意識のうちに取って来たことが多かったんですね。

(もちろんこれは、あくまでも私の雑感であり、
全ての人がこれに当てはまることでは決してありません)

恐怖と不安にさいなまれて

さて、
そう思い込んでいた私が

勝ちパターンのころはトントン拍子で
「よし、次は、少し先を行くアイツに追いつき追い越すぞ」
とがんばれるんですが、

いつか
誰かに必要とされていないと感じたら
(自分自身が誰かの重荷になっていると感じたら)
生きる希望や生きる意欲をなくしていくんでしょうか?

そう思うと、この先の自分が怖くなってきました。
本当にこわくなってきました。

この怖い気持ちにどう向き合って行ったらいいんでしょうか?
次回の記事では、この怖い気持ちにどう向き合ったかについて
お話します。