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家族の病気や、高齢の両親の介護、子育てなどでの悩みは、本当につらいものがあります。私も家族の病気、介護が重なる中で、自分を責め、疲れ、暗い表情が続いていました。しかし、悩んできた中で、やっと気づいたことがあり、この気づきをこの記事で分かち合おうと思います。

これは、病気や困難に悩む心を癒してくれる聖歌です。
オカリナで奏でた聖歌 典礼聖歌393番「主が手をとって起こせば」

燃え尽き症候群

家内が長いこと心身の病に倒れて
かなりの年数がたちます。

そんななかで、
私は何をしてきたのだろうか、
ふり返りました。

これまでの私のことをふり返って見ると
反省すべき気付きが多いのです。

これまで私は
あまりに長い病気のなかで、
ちぐはぐなことをしてしまったり、
良かれと思ってしたことで
かえって家内につらい思いをさせてしまうと、
自分自身を責めさいなみ、
また、
これだけ頑張っているのになぜ改善されないのか
なぜ・・・
と表情が暗くなることが多くありました。

そばで眉間にしわを寄せている私の顔を見て、
家内も本当につらかったと思います。

それで
最近こんなことに気付いたのです!

心を見るということ

今まで私は、家内のこころを見ていたか?
ありのままの家内の、ありのままを見ていたか?

私が見ていたのは、家内の症状であり、
それに対する不安であり、
どうしようかという戸惑いではなかったか。

家内の心が弱っている時、
その心に寄り添っているのではなく、
その弱った心を何とかできないかと模索し
心配ばかりしている自分の姿があったのではないか。

そこに暖かさがあったか?

そう気づきました。

医療福祉従事者の陥る落とし穴

例えば、
私も長いこと入院したことがありますが、
医療・福祉関係の人がよく陥りがちな落とし穴を、
患者なりに見抜いていました。

医療従事者や福祉従事者が
よく陥る心理的状況に、
その人の真実像を見ようとせず、
症状ばかりに目が行ってしまうということがあります。
その結果、その人のマイナス面や、
症状管理面ばかりが強調され、
その人そのものをいつしか見過ごしてしまう・・・・。

医療や福祉の職員の心に余裕がないと、
ともすると
入院しているその人を
「患者」としての見方しかできなくなってしまい、
その人のひょうきんさや、プラス面、素敵な面を見過ごしてしまう。

けっきょく、入院している側からすれば、
入院中は、いつも管理されていると感じてしまう。
心の中では、
本当の私はこんなじゃないと叫んでいる。

医療や福祉に従事する人は
こういう状況にならないように
いつも自分をチェックする必要があると思います。

家庭で「寄り添う心」を忘れないようにしたい

そういうことを知っているのに、

そんな状況が家庭でも、
家族によっておこされていたのなら、
病気で苦しんでいる本人は辛いだろうと思います。。

だから私は最近、
自分自身にこう、言い聞かせています。

「もっと家内に寄り添おうよ。

一緒に時間を過ごそうよ。

一緒に食べた食事がおいしかったら一緒に喜んで、
しんどかったら一緒にゆっくり過ごそうよ。

一緒に時間を分かち合おうよ。

一期一会。
一緒に分かち合う今という時間は
二度とないんだよ。

いっしょに、少しの喜びでも分かち合える、
そんな時間を積み重ねて行くことが、一番の薬だ。

薬を飲めばいい、
高価な健康食品を飲めばいい、
優れた医療や福祉サービスを利用すればいい、
そんなものではないよ、
家族のきずなってのはね。

回復が遅いと焦る気持ちはよくわかるけど、
遅くても一進一退があっても、
家族が焦らず、
いつも穏やかに、
優しく接して一緒に時を過ごせる
そんな安心が一番必要なのじゃないかな?

そして
自分自身も安心が必要だよ。

自分自身の保養も必要だよ。

自分を可愛がろうよ。

おいしいものを食べて
面白いマンガを読んで
大好きなケーキとアイスクリームを食べて

楽しくいようよ。

ぼく自身が楽しくてリラックスしていたら
家庭も明るくなるじゃないか。

無理に楽しむ必要はないけれど、
やりたいことはやりなよ。

安心できる穏やかさを、
いつの時も絶やさないようにしようよ。

症状の変化に
右往左往しないようにしようよ。

ここにいるのは、「病人」ではなく、
たった一人の大切な家族だよ。

一緒に人生を生きている家族なんだから、
いつも優しく安心をあげようよ。

自分を責めて苦しい顔をしていると、
家内も自分を責めてしまうよ。

「私のせいで苦しんでいる」と心を痛めるよ。

だから、自分を責めないようにしようね。

失敗しても
「ぼく、おりこう!」でいいんだよ。

失敗は失敗として、
すぐに気持ちを切り替えて、
コンスタントに穏やかでいようよ。

それが大切なんじゃないかな。

一番身近な家族が、
機嫌のいい時と
落ち込んでいる時の差が激しいと、
本人はどう過ごしたらいいかわからず、
病気の苦しみの上に
心の苦しみまで背負うことになるんだよ。

病気で体がつらい上に
心まで不安になるのはきついよね。

そういう差がないようにしようね。

いつも安心できる、
平安でいられる、
その安心感の積み重ねが必要だよ。」

こう私は自分自身に毎日言い聞かせています。

そのおかげか
最近、
家内とニンテンドーのゲームに
はまることができるようになりました。

おそらく
私が明るくなったこと、
最近近くのスイーツショップで発売された
マカロンをおいしそうに食べられたことなどで、
楽しみが戻ってきたような気がします。

オカリナ演奏 典礼聖歌393番「主が手をとって起こせば」

この歌は イエスに出会って 足の動かない人が歩けるようになったり、
目の見えない人が見えるようになったりした
奇跡的な出来事についての聖書のエピソードを歌ったものです。

これらの出来事についてイエスは、
イエスの魔法や奇跡によるものではなく

「あなたの信仰が、あなたを治した」

と言っています。
これは、 私たちの中に「内なる力」があり
それに気づけば、私たちは立ち上がることができる
ということを物語っているようです。

現代においては 病気が消えたり、
失明した目が見えるようになるような極端なことが起こらないかもしれませんが、
たとえ病気でも、障害があっても、
生活が苦しかったり、社畜状態にあっても、
そのなかにあってもなお、自分のいのちを 自分らしく、
おもしろく、優雅に生きることができる、
夢が閉ざされたような境遇にあっても、
なおも夢に向かって生きられる、
そういう力を私たちは持っているのではないか・・・。
このことに私たちは気づくべきではないだろうか・・・。

この聖歌を吹きながらそんなことを思いめぐらせていました。
この歌には ひじょうに素朴で心温まるメロディーがあります。
この素朴な調べは、
多重奏よりもむしろ、 素朴なオカリナ一本でしか表現できないと思いました。

それで、東大阪の工房で作られた板東正裕さんの作品
「颯オカリナ」のソプラノF一本で吹きました。

オカリナで奏でた聖歌 典礼聖歌393番「主が手をとって起こせば」です。